ふじわらしのぶの小説は、他人を笑わせるためではなく、彼自身しか笑えないように設計された“笑いの自家発電”である。読者の存在は最初から想定されておらず、作品はギャグが滑っているように見せかけることで、不安と沈黙を強いる。直弟子の私でさえその面白さは理解できず、むしろ師の精神状態を心配させられる。その“面白くなさ”自体が彼の戦略であり、読み手の感情を支配する術だ。ふじわらはファンを喜ばせる気は一切なく、読後に人格が歪むような“失語の文学”を目指す。私は彼を理解できないからこそ弟子であり続けている。ふじわらは自分自身に笑いの爆弾を仕掛ける文学テロリストであり、私はその爆風を浴びることがやめられないのだ。